千年祀り唄
―無垢編―


9 憂い


「お願えだ。おらもいっしょにつれてっておくれよ」
子どもが言った。
「おっとうもおっかあもいねえんだ」
冷たい北風がひゅうっと少年の髪を靡かせて行く。裸足の足はあかぎれて、丈の合わない着物は継ぎ当てだらけで、辛うじて体裁を保っていた。
「おら、ずっとひとりぼっちで……」
俯いた子どもの項には、深い傷跡があった。

「おら、わがままなんか言わねえ。おまんまが食いてえなんてことも言わねえから……」
「それは……できぬ」
子どもの必死の願いを、男は拒んだ。
「何でだよ?」
見開いた目にうっすらと涙が滲む。

「ここは境界の場だ。現世に生きる者の魂を入れることはできぬのだ」
無垢の周囲で風がそよいだ。
「だって、おら、どこにも行くとこがねえんだ」
子どもは更に訴えた。が、無垢は首を横に振った。
「何故おまえがここに来たのかは知らぬ。おれの姿が見えるということは、おまえが死に瀕しているからであろう。だが、現世に生きるおまえを、おれにはどうしてやることもできぬのだ」
その言葉に、子どもはがっくりと膝を折った。

そんな少年の前に竹筒を差し出して、男は言った。
「水だ。飲むか?」
「……いらねえ」
子どもは泣きながら首を横に振った。
「おらは戻りてえんだ……」
子どもは両手の指を地面に突き立てて唇を噛んだ。
無垢の背後では、もっこ達が輪を作り、楽しそうに唄い戯れている。

「辛いのか?」
男が訊いた。が、子どもは俯いたまま頭を振った。
「……おっとうもおっかあもみんなよくしてくれた。でも……戦が何もかもを奪って行ったんだ」
「戦……」

「それに流行り病が弟や妹を……それに村のみんなも……。けど、どうにもならなかったんだ」
「それでも、おまえはまだ生きている」
「そうさ。けどもう、どうでもいい! 疲れたんだ。だから……」
子どもは無垢の手を掴もうとした。が、それはできなかった。越えることのできない力がその手を弾いた。

「どうして? そっちへ行きたいのに……何で……!」
「おまえは生を紡がなければならぬ」
男は背中を向けて歩き出した。
「待ってよ、無垢! 行かないで!」
男は一瞬だけ足を止めた。が、沈黙したまま、再び歩き出した。子どもは地面に伏して泣き出した。その声がいつまでも耳に残った。

――いいの?
もっこが訊いた。
――どうしてつれていかないの?
「ここは生と死の境。生きたまま足を踏み入れることはできぬのだ」
やさしい光が男の頬を過ぎた。もっこの一人がその肩に留まった。

(現世ではまだ、意味のない戦が続いている……)
無垢はもっこの背中をそっと撫でた。
(おれとおまえの間には幾千年もの隔たりがある。許せ。おまえを幸せな時代に宿してやれなかったことを……)

もともとその子どもは無垢のところからこの世に生まれた者だった。その母親はもっこ自身が選んだ。そうして、もっこの魂は無垢の元から旅立って行く。現世に何が待っているかは彼ら自身にも見当が付かない。無論、無垢にもそれを知る由はない。そのことで気に病むことではなかった。が、今度ばかりは無垢も心を痛めた。

(あの子どもは、おれのことを覚えていた。そして、この場のことも……)
有り得ないことだった。赤子の時には多少の記憶が残っている者もあったが、多くはその成長と共に薄らぎ、消えてしまう。が、あの子どもは覚えていた。それは、その命が尽きようとしているからだ。
子どもが死に掛けている。
その事実が、無垢にとっては耐えがたい苦痛だった。だが、それはどうしてやることもできないのだ。

彼は直接その子どもに触れることができない。この世のものはすべて穢れているからだ。純粋な子どもの魂でさえ、母の胎内から生まれた瞬間に血の儀式を経て、この世に混じる。本来自由であった魂は、肉体という枷を課せられて現世を生きる。所詮、この世とは理不尽であり、不自由なものなのである。

――むく
もっこが呼んだ。
――みて!
――きれい!
見上げた空には大きな虹が掛かっていた。
「虹だ」
――にじ?
――にじってなあに?
「雨上がりに晴れると空に掛る。幻の道だ」
――まぼろしの?
――どうしてまぼろしなの?
――みちは どこにいくの?
「虹はすぐに消えて行ってしまうから……。そして、あの道を渡って帰って来た者はない」

――どうして?
――かえれないの?
「そうだ」
一人のもっこが無垢に囁く。
――あのひとのところにいく
見ると、一人の娘が桶を持って畦道を歩いていた。
「ああ」
無垢は頷き、もっこが望む通りにそこへ宿してやった。
だが、このところずっと続いている戦を思うと、無垢の心は重く沈んだ。

――おら、どこにも行くとこがねえんだ

世の中がどう変わろうと、赤子は生まれ続ける。
どんな世でも……。
ここにいるもっこ達も3日も経たないうちに、それぞれの親の元に生まれて行った。無垢は一人、切り株に腰を下ろすと、次のもっこが生まれるための儀式をした。
が、筒の液体に兆候はなかった。

――お願えだ。おらもいっしょにつれてっておくれよ

「できぬのだ」
男はそう言うとその額に片手を当てて俯いた。

――無垢

誰かがまた、彼の名を呼んだ。
空に掛かった虹の向こうで黒煙が上がる。
生まれる前に死んだ魂の夜が明けるのはいつなのか。

竹筒の中は乾いていた。
戦が来るって……。災いが来るって、逃げ惑い、
暗い空から落ちて来る子ども……。
あっちでも、こっちでも……逆さまに降り積もる。

「これは、もっこなのか……?」
もっこにしては少し育ち過ぎていた。
だが、生まれたばかりの赤ん坊の姿をした者もいた。
欠けた手足のままの子どももいた。
子どもが空を埋め尽くしていた。
そうして、子どもは次々と落ちて来た。無垢のもとに……。

――ここはどこ?
――あなたはだれ?
「おれは無垢。おまえ達を世話する者だ」
――むく
――ここにいたら
――もう いたいことない?
――くるしいこともなくなる?
「ああ」
――あつくて
――こごえて
――おなかがすいて
――なきあかすこともない?
「ああ……」
――いらないこだなんて いわれない?

無垢はその子らを抱きしめた。次から次へと落ちて来る子どもらを、その手に寄せた。
虹の向こうには千年の祀りに飢えた人々が、子どもを生贄にし、戦の名のもとに魂を葬っていた。
――むく
その中に、あの子どもがいた。
――おら むくのことおぼえてた このばしょのことも みんな……
「そうか」
――おらはまた ここにこれた だから もういいんだ
その子の魂は揺らぎ、消え掛けていた。
無垢はそんな子どもの肩に触れた。
「ここは生まれる前の拠り所……。さあ、お入り」
そうして、傷付いた魂は彼の懐の中へ入ると、小さな泡のもっこになった。
そして、無数の皮膜に包まれた命が、空を覆った。

千の命を唄う夜
千の灯りが照らす夜
そこに戦があるならば、静かに眠ろう 夜明けまで……。
次にはきっと穏やかな
春の日に目覚めよう

――むく
もっこが一人、彼の肩に止まる。
――こわかったんだ
無垢は黙って頷いた。
――すごくこわくて……
「ここにいればもう、怖いことなんか何もない。だから、おやすみ」
足元に降り積もるもっこ達。
止まらない命のせせらぎ。
男は、そんなもっこ達のために、いつもより大きなまほろばを編んだ。